2020年。コロナ禍で多くの演奏機会を奪われた私たち音楽家にとって、昨年はどんな年だったのか。
春、自粛がなかなか明けず、自宅で撮った演奏動画をインターネットで公開する「宅録演奏」が流行した。夏頃からは有難いことに外でのコンサートの機会があったが、マスク姿のお客様とそれを上回る数の「着席禁止」の紙が貼られた座席を見ながらの演奏を繰り返した。私自身はそれに加え、友人と共催する公演では演奏会終了後にも「公演動画の配信」のための様々な作業をするような日々が続いた。本当に不思議な年だった。
「宅録演奏」や「公演動画の配信」は、様々な目的のものが乱立したが、公開した動画の閲覧数を稼ぎ広告収入を稼業とする「YouTuber」たちの存在が既にあり、そこで培われた技術や流れへ乗る形になった――という面もあるかと思われる。ただ自粛以前の動画配信と大きく異なるのは、なんらかの演奏やリズムに合わせて複数人がそれぞれの家で演奏を撮り、後からPCやスマートフォン上で動画を重ねる―場所を選ばない「重ね撮り」が新しく流行したことだったかと思う。
多人数のアンサンブルを異なる場所で演奏し、演奏動画を電子機器によって重ね、結果として「合奏」として作り上げるためには、通常よりもリズム感を一致させることに多くの努力を要したり、あるいはクラシック音楽家にとっては少々困難に感じられたりする、最初から最後まで「in tempoで(そのままのリズムで)演奏する」といったことが副次的に必要となってくる。
私は昨夏、複数の友人と多く議論を交わした。通常の対面の合奏では必要なかった「妙なin tempo」をクラシックに持ち込まざるを得ないこと、そしてその落とし所について。常に周期的なリズムに支配される音楽は果たして自然なのか、気持ちよく聴ける芸術になり得るのか。
息を吸うこと・吐くことや脈動などの繰り返しにも、感情に支配されてリズムが乱れることがある。こうした人や生物ならではの「tempoの乱れ」の存在。それから、ボールを上空に放り投げると、あるところで減速し、その後地球の引力に引っ張られて落下してくる――というような「重力」の存在。それに加え、途中で風が吹いてきて落下速度に乱れが生じてしまうことがある――というような、自然の中でも等速運動を遮る事象が多数存在する。音楽は、精神や生命活動、森羅万象を表すことが多いが、そこには様々な「in tempo」ではない要素があり、逆に言えば必ずしも「in tempo」とはいかないところに自然さがあるとも言えるだろう。
クローズドではあったが、私自身もメトロノームのように周期的にリズムを打つ「クリック音」に合わせて演奏する機会があった。初めはカチカチ…と周期的にやってくるリズムに苛立ちを覚えざるを得なかったが、ふとした瞬間にその「in tempo」がある経験に重なった。周期的なリズムの中でも、何も問題なく気持ちよく演奏したことのある記憶が思い起こされたのだ。
――舞曲だ。
パリに留学していた数年前に、幸運にもヴェルサイユ宮殿で演奏する機会があった。演奏したのは、ルイ14世のもとで書かれたA. カンプラの作品、《優雅なヨーロッパ》(Campra, André. L’Europe galant.)。オペラ=バレ作品で、前奏曲に続いて歌曲と舞曲が交代しながら登場する華やかな楽曲だ。歌曲では当然歌い手がメインであり、オーケストラはそこに付けていくわけだが、舞曲のメインはダンサーである。ダンサーが転んでしまうような「in tempo」からの逸脱はできない。
1小節の中、あるいは複数の小節の中での「拍の優劣」というものは全ての舞曲にそれぞれの特徴として存在し、重い拍 or 軽い拍、強い拍 or 弱い拍、長い拍 or 短い拍など、様々な要素はあるが、それでも結果的に舞曲は「in tempo」の中で進む。大型の打楽器も登場する曲は、長いものに巻かれるかのように打楽器たちにリズムを支配されて、楽譜上では一見抒情的に見えるようなフレーズも「in tempo」の中で演奏されるのだ。
私はコレだ!と思って、昨秋に催した高校生・大学生を対象としたJ. S. バッハに関するレクチャーの中で、皆で打楽器のリズムに乗せられてバロックの舞曲(メヌエット、ブーレ、ガヴォット、サラバンド、シャコンヌ、ジーグ…etc.)を演奏する機会というものを作ってみた。学生たちは初めこそ慣れない感じだったが、次第に舞曲の「ノリ」に合わせて演奏することに喜びや楽しさを見出した。そして最後には、それぞれにバッハの無伴奏曲を「in tempo」といえる範囲の中で、しかし表現力を全く落とすことなく、むしろより良くイキイキと演奏できるようになる学生が多く見られた。
ベートーヴェンの作品の多くも「in tempo」が良しとされていたりするが、「in tempo」を守りつつも、舞曲を演奏する際の「拍の優劣」を取り入れることによって、色々と表情が付けられるというようにも考えられる。TVドラマ版の「のだめカンタービレ」の影響で一躍有名になった、ベートーヴェンの《交響曲 第7番 作品92》の第一楽章は、舞曲の「カナリー(英Canary、仏Canarie)」がベースになっていたり、《ピアノ三重奏曲 第7番『大公』作品97》の第三楽章を「サラバンド(Sarabande)」、あるいは「シャコンヌ(Chaconne)」をベースとした曲と考えると、奇数小節が比較的少し重く、偶数小節は軽めで次へ進める拍感を有す小節であると解釈することができること――など。舞曲のタイトルは付けられていない作品でも、ルネサンスからバロック時代に培われた舞曲のリズム感がベースになっていると言える作品、また舞曲の演奏様式が生かせる作品などが、ベートーヴェンの作品の中にもあるのだ。
このようなバロック時代の様式や、18世紀前後の演奏家達が楽譜を読み、演奏するまでのプロセスの中で行われる、今と異なる演奏習慣などを調べ、ベートーヴェン以降の作品にも生かしていく取り組みが私の人生の目標の1つであり、修士論文と博士論文ともにそこがテーマであった。そのため、今年の「妙なin tempo」の演奏に苛まれた期間は、結果的にバロック時代の舞曲とベートーヴェンをつなぐ、有益なものともなった。
同い年の親友であり、度々共演している川口成彦君が「2022年が真のベートーヴェンイヤーである」とする説を教えてくれたが(エッセイ第6回参照)、再度訪れる来年のベートヴェン・メモリアルイヤー(?)までに、私自身は更にベートーヴェンの舞曲ベースで書かれている作品についての研究も進めてみようかと思う。また今後、再度自粛騒ぎなど何が起きてくるかも分からないので、いつかの「宅録演奏」による「重ね撮り」再流行時のために、演奏者のストレス軽減のためにも「in tempo」で演奏しやすい舞曲ベースの作品リストも作っておくべきか…とも、少し思う。いや、「やはり生演奏こそが感動を呼ぶ」、「自粛明けのコンサートで生演奏の有難みが増した」という声も多くのファンからかけていただいたし、先日のコンサートプロジェクトの中では、感染予防対策監修のお医者様たちは「クラシックのコンサートは観客席での会話が演奏中は皆無であり、感染リスクは非常に低い」と仰っていたので、もちろん!再度自宅待機になるような事態は避けてほしいと祈る限りだが…!
島根朋史
(チェロ/ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者)
島根朋史 Tomofumi Shimane
附属高校から修士課程までを経て、東京藝術大学大学院にて博士号(音楽・チェロ)を取得。同声会賞、大学院アカンサス音楽賞を受賞。サティ音楽院(パリ)修了。留学中、故アンナー・ビルスマ氏などに師事。東京文化会館、スービズ邸(パリ)にてリサイタルを開催。2019年リリースのソロCD「Les Monologues」は、新聞・雑誌等5誌の推薦盤に選出された。古楽オーケストラLa Musica Collana首席奏者、サブ・ディレクター。バッハ・コレギウム・ジャパン、オーケストラ・リベラ・クラシカ、弦楽アンサンブルTGSなど各メンバー。日本弦楽指導者協会正会員。現代のチェロ、ヒストリカル・チェロ、ヴィオラ・ダ・ガンバを操る三刀流奏者、演奏家兼研究者として活動中。
公式HP:http://tomofumi0shimane.web.fc2.com/
Comments